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NO.0035

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち

~濱田庄司③

公開日 2021.1.14


連載7:濱田庄司③ 沖縄で学び、益子で育つ

神戸港に着いた濱田はそのまま京都の河井寛次郎を訪ねます。濱田の帰国を心待ちにしていた河井と二人で、昼間は古い焼物を求めて道具屋を回り、夜は自分たちが目ざす陶芸の話に明け暮れます。濱田は関東大震災で被災した家族のもとへ帰ることも忘れ、河井の家で二ヶ月ほど暮らしました。柳宗悦もまた震災を逃れて京都に引っ越していました。柳は濱田が持ち帰ったスリップウェアを見てとても感心したようです。

濱田はある人にこれからどういうものを作るのか尋ねられました。「日常の暮しに役立つものを作りたい」(『無盡蔵』、99頁)というのが濱田の答えでした。「暮しにも仕事にも一途に健康さ」(同、39頁)を求めた濱田にとって、田舎での健康な生活から生まれる焼物こそが陶芸家として目ざすものでした。そうして濱田が選んだのが栃木県の 益子(ましこ) と沖縄でした。いずれも渡英前に一度、河井とともに訪れたことがあった場所です。

帰国した1924年(大正13)の6月、濱田は陶工の家に間借りして益子での作陶生活に入ります。河井は釉薬が手に入りにくい益子よりも京都で暮らすよう勧めましたが濱田の考えは変わりませんでした。同年12月、結婚後に沖縄に飛び、翌年3月まで滞在します。以後、春から秋は益子で、冬は沖縄でというサイクルで作陶生活を送ります。

沖縄では窯場だけでなく町中を散策し、人々の暮らしぶりに触れます。見るものすべてが面白く飽きることがなかったと濱田は語っています。陶芸は壺屋焼の窯場で学びました。仕事場の前には見わたす限り 砂糖黍(さとうきび) 畑が広がっていました。それを見て描いた砂糖黍の模様「 黍文(きびもん) 」が濱田のトレードマークとなります。また、濱田が沖縄で学んだ最大の技法が琉球王朝時代の赤絵でした。琉球赤絵は白化粧土に赤絵を施す独特なものですが、その他にも、珊瑚礁を砕いた石灰ともみ殻などを調合した釉薬を使用する独自の技法に魅了されました。以後、益子でも沖縄で身に着けた赤絵の技法で制作し、「黍文」を施した作品を数多く作ります。濱田は沖縄では数多くのことを学び、やりたいことが途切れなく増えていったと述懐しています。「壺屋全体の暮しと仕事とに保たれている純粋さの濃さ」(同、33頁)に心打たれたと述べていますが、技術的なものだけでなく、仕事の基になる“暮らし”を沖縄で経験できたことが濱田には何よりも得難い学びだったようです。

益子では間借り生活をやめ、1930年(昭和5)に茅葺き民家を購入しました。翌年には 登窯(のぼりがま) を築きます。1942年(昭和17)になると、150坪の大農家を移築しています。濱田にとって民家で暮らすことは、田舎での「健康な生活」によって優れた工芸品が生まれるという英国での学びの実践でもありました。

益子は原料が容易に入手できることから、昔から作られてきた益子焼と同じ陶芸作りができる場所でした。原料は一部の磁器について会津のもの以外はすべて益子のものを使いました。濱田は益子の土について、一流ではないけれども使いやすく、「土地柄通りの純粋さに満足した」(同、40頁)と述べています。釉に使う灰や石や金属類なども地元で揃えることができました。最も多く使用する柿釉は石材の粉末を使い、鉄粉は鍛冶屋の 鋸屑(のこぎりくず) 、銅紛は銅の古鍋から取ったといいます。絵付け用筆は飼っている犬の毛で手作りしました。これらは一流の原料とは言い難いですが、一流の原料を生かしきれずに二流、三流のものを作るより、二、三流の原料で一流のものを作るというのが濱田の方法でした。それは容易ではない道のりだと想像されるとおり、のちに濱田は益子の土を二十年使い続けて、どうにかこなせるようになったと述べています。
沖縄でも益子でも自分の方から原料や手法を持ち込むのでなく、その土地のものに合わせるのが濱田のやり方でした。陶芸は窯や 轆轤(ろくろ) の状態、天候などによっても、その出来上がりに影響を受けます。濱田は陶芸作品とは自分で作るというよりも、「何かにこしらえてもらった品」(同、64頁)であると書いています。これは陶芸とは自分ひとりの力によるものではなく、窯の炎や灰などの他力による働きが大きな役割を担うという創作態度によるものです。濱田は自作に 落款(らっかん) を入れないことで知られていますが、濱田にとって陶芸は自力的な作為ではなく、他力的に生み出される美でした。

民藝運動は1926年(大正15)の「日本民藝美術館設立趣意書」の発表により具体的な活動に入ります。柳や河井らとともに、民藝品の調査と 蒐集(しゅうしゅう) のために全国へ赴きます。蒐集についての濱田の有名な言葉に「物に出会って、自分はとてもこれには勝てないと思ったとき、私は負けたしるしに持帰る」(『現代の陶匠』310頁)というのがあります。濱田の伝統的な民藝品のコレクションは自分の創作の栄養分となって、自作に生まれ変わっていったのです。
濱田は、伝統を見直すことの大切さを次のように書いています。

「一番大切なことは形を成す以前の眼に見えない根の力にあるのであって、換言すれば伝統はいつでもどこでも、私達の足許を掘って得られる地下水であり、これは地上の呼び水ではなく、地底からの湧き水であります。古くてしかもつねに新しい生命に溢れております。」(『無儘蔵』、203頁)

濱田はまた「今私達が古いものに驚くのは、すでにそこから新しい出発を約束されている証拠」であり、「いい新しいものには必ずといってよい程、根を通して古さのよさがうけとめられている」(同、266頁)とも述べています。沖縄、益子、そして日本各地の伝統技法を汲み上げ消化することを現代の仕事として捉え、見えない「根」の力を新しい作品に生かしていく姿勢が、陶芸家・濱田庄司を形作っていったと言えるでしょう。]

濱田の残した言葉に「十五秒プラス六十年」(同、13頁)があります。これは、大皿に対する釉掛が十五秒もかからないのは速すぎて物足りないのではないかと人に尋ねられた際の答えです。一瞬の手さばきの仕事のうちに濱田の生涯を賭けてきたものが凝縮されていることを物語るような言葉です。

濱田は六十一歳を迎える1955年(昭和30)、第一回重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されます。1964年(昭和39)には紫綬褒章、1968年(昭和43)には文化勲章をそれぞれ受章しました。濱田は1978年(昭和53)、益子でその生涯を閉じました。享年83歳。現在、Shoji HAMADAの名は、日本を代表する陶芸家の一人として世界に知られています。

《主要参考文献》
濱田庄司『無盡蔵』朝日新聞社、1974年
濱田庄司『浜田庄司―窯にまかせて』株式会社日本図書センター、1997年
水尾比呂志「陶芸家濱田庄司の文藻」(濱田庄司『無盡蔵』講談社文芸文庫、2000年所収)
水尾比呂志『現代の陶匠』芸艸堂, 1979年
『炎芸術』No.104、2010冬「特集 濱田庄司 美のモダニスト」、阿部出版

【投稿:スタッフM.K】