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NO.0032

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち

~バーナード・リーチ④

公開日 2020.5.20


以前の記事はこちら↓

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ①
連載1:バーナード・リーチ①日本渡航以前


連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ②
連載2:バーナード・リーチ②日本時代―陶芸と仲間たちとの出会い


連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ③
連載3:バーナード・リーチ③ 安孫子(あびこ) ・麻布時代を経てイギリスへ


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連載4:バーナード・リーチ④
日本の心を西洋へ、英国の伝統を日本の地方窯に伝える

リーチと濱田が作陶生活を送ったセント・アイブズはケルト文化が残るコーンウォール州に属し、独特の美しい風景を持つ港町です。同地に赴いたのは、知人の紹介でセント・アイブズ手工芸ギルドの会員となり、主宰する人物から協力を得ることができたためでした。セント・アイブスは二人が暮らし始めた1920年代以降、ベン・ニコルソンやバーバラ・ヘップワース、アルフレッド・ウォリス、クリストファー・ウッドなどの美術家たちが住む芸術家コロニーを形成していきます。

リーチのセント・アイブズでの創作活動は、地元で採れる粘土や (ゆう) などを使い、主に東洋の技術を使って制作するということでした。地元の素材にこだわったのは経費を抑えられるという利点からだけではなく、必要な粘土を調達しやすいこと、完成した作品に地方色を生かすことができるという理由からでした。しかし、地元の粘土は硬くて粘り気がなく、濱田と二人で土探しに時間をかけたといいます。また、 釉薬(ゆうやく) を作るのに必要な灰が日本のように手軽に手に入らないため、二人は自然の中を探し歩きました。カラスムギ、小麦、シャクナゲ、 (わらび) 、竹、芝の根、松や樫の木などを焼いて灰にしたり、長石、石灰、石英、オーカー、錫、銅などの鉱物も試しましたが満足な結果を得られませんでした。セント・アイブズは (にしん) 漁が盛んでしたが、二人が試行錯誤の末に見出したのが鰊を 燻製(くんせい) にする際に出る灰でした。

窯についても苦労します。ヨーロッパで最初の 登窯(のぼりがま) を築きますが、建造に際して地元の職人はパン屋の窯しか築いたことがないため、登窯の構造を教えることから始まりました。最初は満足のいく焼成ができなかったため、日本から技術者を呼び寄せ大幅に改造を行ったりしました。

リーチと濱田は失敗を重ねながらも、1921年(大正10)、ロンドンのアーティフィサー・ギルド展に二人合わせて約100点を出品します。リーチのイギリスでの初個展は翌年の11月、ロンドンのコッツウォルド・ギャラリーで行われ、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館やボストン美術館に購入されるなど好評でした。以後ほぼ毎年個展を開催し、パリ、ミラノ、ライプツィヒで開かれた合同展覧会などにも出品し続け、評価を高めていきます。

リーチは作家活動の傍ら、次世代の教育活動にも努めます。彼の工房リーチ・ポタリーには地元イギリスだけでなく世界各国から学生など若者らが集まってきました。彼ら弟子たちに日本で身につけた技法を伝え、陶芸家として育成していきます。戦後は常に10人前後のスタッフがリーチ・ポタリーで働いていたといいます。やがて弟子たちは独立していきました。

リーチが研究対象とした伝統陶芸のスリップウェアはslip( 泥漿(でいしょう) )状の 化粧土(けしょうつち) で抽象文様を描き、表面にガレナ釉などをかけ約千度の低温度で焼く陶器一般の総称を指します。リーチはスリップウェアだけでなく、古代ギリシャなどヨーロッパの伝統的な様式や技法を研究し、楽焼など日本で学んだ技術を応用しながら創作しました。リーチが1925年に制作した代表作のスリップウェア《ガレナ釉筒描人魚文大皿》は、大原美術館の創設者・大原孫三郎によって購入されています。

スリップウェアはリーチ、濱田、河井、富本の四人の「民藝」の陶芸家と、「民藝」を唱えた柳をも夢中にしました。以後、彼ら四人の陶芸家たちはイギリスの古陶の技法を吸収し、20世紀の陶芸の表現としてそれぞれのやり方で創作に生かしていきます。産業革命以前に消滅していたスリップウェアは近代日本で見いだされ、「民藝」の陶芸家たちによって復興したとも言えます。

1934年(昭和9)リーチは日本に再訪します。その後もたびたび日本を訪れ、個展の開催や、「民藝」の仲間たちと共に各地の窯場で作陶しています。リーチが訪ねた場所は、 益子(ましこ) (栃木)、湯町(島根県松江)、 出西(しゅっさい (島根県出雲)、 小鹿田(おんた) (大分)、 二川(ふたがわ) (福岡)、苗代川(鹿児島)、丹波、京都、倉敷、鳥取などでした。

リーチ自身がそれぞれの窯場の技法を学ぶためでしたが、リーチもスリップウェアの技法など作陶指導も行いました。それまでの日本の陶芸界では取っ手を付ける伝統がほとんどありませんでしたが、リーチは「ウェット・ハンドル」と呼ばれる水差しの取っ手の付け方を各地の窯場に教えました。島根県の 布志名(ふじな) 焼の湯町窯では「取っ手は木から枝が生えるように自然につける」(『炎芸術』No.128、55頁)と教えられ、リーチはコーヒーカップやピッチャーを作ることを勧めたようです。同県の出西窯ではリーチの教えが次のように伝わっています。「唇に喜びはあるか。例えばコーヒーカップなら、持ちやすいか、口にあてた時に喜びがあるか。つまり、その器でコーヒーがどれだけ美味しく飲めるか。それが道具としての価値ということです。」とある陶工は語っています(『ひととき』2017年3月号 vol.17、19頁)。湯町窯ではその他にも、素地に文様を描く「筒描き」の手法に使用する竹筒の代わりに、より自由が利くスポイトを使うことをリーチは伝えました。このようにリーチの教えは現在の日本の陶芸家にも受け継がれているのです。

リーチは具体的な創作に際しては、素材のことと、作品の使用目的のことしか考えないと述べています。そして、 轆轤(ろくろ) の動力化を認めず、終生手仕事にこだわりました。リーチが陶芸に求めていたのは、産業革命以前における素材、手仕事、そして「簡素な美」を見出すことであり、「自分自身の両手を用いて失われた価値をいくらかなりとも取り戻す」ことでした。これは「対抗産業革命、すなわち機械の奴隷となることへの拒絶」だと述べています(鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術』130頁)。リーチがこうした考えを抱くようになったのは、産業革命による大量生産がもたらした安価で粗悪なものづくりではなく、中世の手仕事に帰り生活と芸術の一致を唱えたウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動や、安孫子で 柳宗悦(やなぎむねよし) を中心とした「白樺」の作家たちと交わした「民藝」についての議論が深く影響していると考えられています。陶芸創作において、鑑賞としてだけでなく実用性も重視していたリーチは、西洋の地で民藝運動が唱える「用に即する美」を共有していたのです。

リーチは第二次世界大戦後に世界に広く認められるようになり、今日では二十世紀のイギリスを代表する陶芸家の一人となりました。リーチは陶芸を通じて日本の心を西洋に伝えるとともに、幾度となく来日して各地の窯場で作陶指導を行い、日本の陶芸家たちに影響を与えました。「東西の融合」を理念に掲げた陶芸家バーナード・リーチは1979年5月6日、その生涯を閉じました。享年92歳でした。


《主要参考文献》
バーナード・リーチ『東と西を超えて 自伝的回想』
福田陸太郎訳,日本経済新聞社,1982年
鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術――「東と西の結婚」のヴィジョン』
ミネルヴァ書房、2006年
水尾比呂志『現代の陶匠』芸艸堂、1979年
『ひととき』2017年3月号 vol.17、株式会社ウェッジ
『炎芸術』No.128、2016冬号、阿部出版株式会社

【投稿:スタッフM.K】



バーナード・リーチ「鉄釉砂糖壺」1953年制作 枚方市所蔵
※枚方市生涯学習課掲載許可済み