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NO.0030

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち

~バーナード・リーチ③

公開日 2020.3.13


以前の記事はこちら↓

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ①
連載1:バーナード・リーチ①日本渡航以前


連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ②
連載2:バーナード・リーチ②日本時代―陶芸と仲間たちとの出会い


◇       ◇


連載3:バーナード・リーチ③ 安孫子(あびこ) ・麻布時代を経てイギリスへ

1916年(大正5)12月、日本に戻ったリーチは奈良の富本憲吉を訪ねます。すでに陶芸家となっていた富本の窯で数週間、再び陶芸に取り組みました。仲の良い兄弟のようだったという富本との奈良での交遊についてリーチは、徒歩や自転車で田舎を訪れ、羊歯類や花、雲や鳥、建物などをスケッチブックに走り描きをして過ごしたと述べています。二人とも奈良でのスケッチが後年になって陶器の絵付けの図案のもとになったようです。
リーチの陶芸の魅力は絵付けにあると言われています。「民藝」の四人の陶芸家のうち、濱田は「形」、河井は「釉」であるのに対して、リーチは富本とともに「模様」の作家といわれます。 二人の模様についても、「厳しさ」の富本に対して、「優しさ」のリーチと評されます。絵付模様の創造において二人が確認し合った方法論は「模様から模様を作らない」というものでした。古い意匠から新しい図案を作り出すのではなく、自然の事物の写生に基づき抽象化して創造したオリジナルな模様なのです。もともと画家だったリーチは筆技を磨くことを日課としていたといいます。

リーチは東京に戻ると、師・六代尾形 乾山(けんざん から窯と道具類を譲り受け、千葉県 安孫子(あびこ) 柳宗悦(やなぎむねよし) の家に窯を移築します。窯は1917年(大正6)3月に完成し、それ以降、週末に原宿の借家で家族と過ごす以外は安孫子の柳宅で本格的に作陶生活に入ります。 青磁(せいじ) 白磁(はくじ) の制作と、還元炎の研究に励んだようです。
この頃、柳のほかに安孫子に住んでいた武者小路実篤、志賀直哉ら「白樺」同人とも交遊を再開しています。夜になると四人は討論を重ね、リーチは自分の思索を広げていったといいます。すでに名を成していた小説家二人との交流はリーチの芸術活動にも結びつき、武者小路実篤の『不幸な男』『雑感』、志賀直哉の『夜の光』、雑誌『白樺』などの装丁を手掛けます。
「白樺」同人たちの中心にいたのが柳です。柳の家には多くの来客があり、そのうちの一人に京都から訪ねてきた 濱田庄司(はまだしょうじ) がいました。濱田とは前年の1918年(大正7)に東京・神田の 流逸荘(りゅういつそう) で開催したリーチの個展で知り合っていました。濱田は東京高等工業高校(現・東京工業大学)を出た後、京都市立陶磁器試験所に勤務していて、窯の中で起こる焼成を科学的に説明できる教育を受けていました。濱田の二日間の安孫子滞在のあいだに、濱田を交えた議論が繰り広げられたと想像されます。

柳を中心にした「民藝運動」が開始されるのは、柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉の四人の連名による「日本民藝美術館設立趣意書」が発表された1926年(大正15)4月1日とされています。リーチは安孫子時代の柳らとの会話の主題は、民藝や芸術工芸に関するものだったと述べています。「民藝運動」はリーチが安孫子で過ごした一年余りの交流の中ですでに芽生えていたと言えるかもしれません。後年リーチは安孫子時代を生涯で最も幸福な時期だったと回想しています。
しかし、突然、リーチの安孫子時代が終わりを告げました。1919年(大正8)5月、リーチの仕事場が火事により焼失したのです。原因はリーチによる窯の焚きすぎであったといいます。
窯場を失ったリーチに手をさしのべたのが黒田清輝でした。黒田はリーチに経済的援助を申し出、黒田の麻布邸に窯を造り、リーチに提供したのです。窯は安孫子から煉瓦が運ばれ、師・六代乾山の手により築かれました。この麻布時代にリーチは安孫子時代と同様、楽焼、ストーンウェア( 炻器(せっき) )、磁器などを制作します。特に磁器の上絵付けの技術を磨いたようです。

1920年(大正9)6月、33歳のリーチは約11年の日本での生活を終え、イギリスに帰国します。子どもに本国で教育を受けさせたかったことと、イギリスの伝統陶芸を研究しようと思ったのが帰国理由でした。リーチと母国伝統の陶器スリップウェアに関して、次のようなエピソードが残っています。ある日、奈良から上京した富本憲吉は日本橋丸善で買い求めた洋書『風変わりなイギリス古陶』(チャールズ・ロマックス著、1909年)を携えて、上野桜木町のリーチ宅を訪れました。その本には器の表面に線模様や抽象文様を描く18世紀の陶器スリップウェアの写真が掲載されていました。富本は所持金を使い果たしてしまっていて、奈良に帰るための旅費をリーチに借りようとしたところ、それを見たリーチは興奮して、自分がじっくりと見終わるまでは旅費は貸さないと応じたといいます。結局富本は購入した本をリーチ宅に残したまま奈良に帰らざるを得ませんでした。リーチは異国の地で陶芸に出会いましたが、それまで知らなかった母国の伝統的な陶器にも出会ったのでした。

帰国直前の5月にリーチは柳宗悦と共に朝鮮に旅行しています。滞在は一週間ほどでしたが、リーチは李朝の陶器に魅了されたようです。現地を案内した朝鮮古陶磁研究者・浅川 伯教(のりたか) はリーチが「朝鮮の青磁のあの淡雪晴れの空の様な柔らかさと湖水の面の様な深さとに見入って、この色を出して見たい、この色の気持が非常に好きだ」と述べたと証言しています。また「自分は朝鮮のものに一番近い」とも話したそうです(鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術』84頁)。日本で修行したリーチは以後、陶芸家として中国宋代や李氏朝鮮といった大陸の磁器を重要視します。「中国の形、朝鮮の線、日本の色」がリーチの日本における到達点であり、イギリスでの出発点であると考えられています。
帰国に際し、リーチは濱田庄司に渡英を勧めます。同年9月、イングランド南西部のセント・アイブズで陶芸工房「リーチ・ポタリー」を構え、二人は協力して 築窯(ちくよう) と創作活動に励むことになります。

《主要参考文献》
バーナード・リーチ『東と西を超えて 自伝的回想』
福田陸太郎訳,日本経済新聞社,1982年
鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術――「東と西の結婚」のヴィジョン』
ミネルヴァ書房、2006年
水尾比呂志『現代の陶匠』芸艸堂、1979年

【投稿:スタッフM.K】



バーナード・リーチ「鉄釉砂糖壺」1953年制作 枚方市所蔵
※枚方市生涯学習課掲載許可済み