橋村物語⑨

トップページ > 橋村物語⑨

橋村物語⑨


大阪美術学校の校舎は二度大きな災害に見舞われました。一つは1934年(昭和9)に室戸台風で、校舎は大きな損害を被りました。当時の牧野尋常小学校が倒壊したため、臨時校舎として美術学校の教室を橋村が提供しました。
もう一つは陸軍の禁野火薬庫の大爆発です。1939年(昭和14)3月1日午後2時45分、学校に近接する禁野火薬庫(大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫)が大爆発する事故が発生し弾薬破片が飛散しました。爆発は約4時間、29回にわたって繰り返し起こり、死者94名、重軽傷者602人、全半壊・全半焼した家屋821戸を数える大惨事となりました。大阪美術学校本校舎の窓ガラスはすべて割れ、屋根・天井も抜け落ち、半壊となる被害を受けました。校舎に隣接する大来館に居住する橋村の安否が気遣われたと新聞で報じられています(3月2日付読売新聞・東京)。この時橋村は、同校で学生十余名と教室で雑談中に被災、家族を非難させた後、学生を指揮して防火に努め、校舎の延焼を免れます。橋村は学生たちとともに不発弾や学校の資財などを処理していたといいます。

橋村はのちに「私は砲兵工廠とよほど縁が深いと見える。先には手を傷つけ、今度は学校を壊された」 と苦笑して語ったといいます。橋村は学校再建にあたり、大阪市への移転も考えますが、御殿山での復興に向けて校舎の修理を進め、5月に第12回大美展を大阪市立美術館で開催、半年後の9月10日に開校しています。このことは大惨事にも関わらず、創作の火を消すことなく学校再建へと導いた橋村の強靭な精神力と卓越した行動力を示すものと言えます。
最終学生の一人である洋画家の小渓住久は、戦時下においても「午前はモデル写生、午後は田園風景を描き、校風は自由だしとても楽しかった」と述懐しています。また同氏によると、橋村が戦時下でも石炭を確保したため、冬でもゆっくりモデルが描けたようです。戦時下においても学生たちに創作に集中させ自由を守ろうとした教育者・橋村としての熱意が衰えることはありませんでした。

しかし、昭和19年大阪美術学校は陸軍に接収され、陸軍病院等に変わり事実上閉校となりました。橋村は54歳でした。翌年の終戦の日に詠んだ句と自画像が残っています。

「天井に煙草のけむりふきあけて きえゆくを見て眼とさしぬ 昭和二十年八月十五日所感」

戦後、橋村は御殿山から豊中へ移住します。大阪市立美術館付設美術研究所の設立に尽力し、大阪市立工芸高等学校の講師を務め、戦後も後進の指導にあたりました。
1958年(昭和33)には日展評議員、1960年(昭和35)には日本南画院を再興し副会長となり、1964年(昭和39)には会長に就きました。創作面では1961年(昭和36)に「錦楓」が第十七回日本芸術院賞を受賞しています。

戦後米軍に接収された大阪市立美術館が難波の精華小学校に移るよう命ぜられ、昭和21年7月同校に美術研究所を開設し生徒を募集しました。橋村は残っていた大阪美術学校の石膏塑像、イーゼル等すべてを同研究所に寄贈しています。橋村は同研究所で長く後進の指導にあたりました。

橋村は1965年(昭和40)4月17日、76歳でその生涯を閉じました。同年5月、従五位勲四等瑞宝章を授与されています。

お問い合わせ

050-7102-3135

開館時間:午前9時~午後9時まで(日曜、祝日は午後5時まで)
休館日:毎月第4月曜日(祝日の場合は開館)、年末年始。