橋村物語⑥

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橋村物語⑥


芸術家を目ざす若者たちの御殿山での学校生活はどのようなものだったのでしょうか。まず周囲の環境を見てみましょう。御殿山に建つ大阪美術学校周辺の当時の様子が、斎藤与里作詞による校歌と同校卒業生の南画家・清水要樹の回想に伺えます。

茲は渚の御殿山 わが学び舎に来り見よ
生駒六甲京の山 奈良や大和の山々も
一目に見ゆる其の眺め 宇治桃山も亦近し
渚の里は京阪の 写生地帯と称えられ
山川人家森林 四季交々に移り行く
風光佳絶その様は げに屋外の我が校舎
(大阪美術学校第一校歌抜粋・斎藤与里作詞)

「当時は学校の裏山から西に淀川の流れを、南に枚方の町を、東に生駒山、北に山崎・京の叡山を眺められた静かな環境で実に絵を勉強するに相応しい所であった。」清水要樹「画業六十年の思い出―あとがきにかえて―」『画業六十周年記念 清水要樹画集』監修:関西水墨画研究会、1993 年、211 頁)

校舎の建つ御殿山は遠く奈良や京都の山々を望め、至るところに写生場所が見つかる、風光に恵まれた土地であったことがわかります。第二校歌には「裏の松山蝉しぐれ」、「虫をききつつ絵筆とる」と唄われていますが、夏になると、美術センター中庭と自然が残る御殿山公園から蝉の声が聞こえるのは今も変わりません。また版画家・菅井汲( すがいくみ ) は学生時代、授業に出るよりも魚釣りで時間を過ごすことの方が多かったという話が伝わっています。学生たちは自然の中でのびのびと自由に創作に励んでいたと思われます。

授業は本科 3 年、専攻科 2 年の計 5 年で卒業、専攻科の上に研究科 3年が設けられていました。学課目は、本科が「石膏写生」「人体写生」「美術及美術史」など、専攻科は「制作実習」「美術及美術史」などで、漢文、漢詩、フランス語などもありました。西洋美術史と仏語はパリ留学経験のある斎藤与里、日本美術史・国文学は有職故実や万葉集など日本の古典に明るい福岡青嵐がそれぞれ担当しました。なお与里は 1936 年(昭和11)に東京に転居しましたが、週に一度来阪して指導を続けました。

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開館時間:午前9時~午後9時まで(日曜、祝日は午後5時まで)
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