橋村物語⑤

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橋村物語⑤


大阪美術学校第一期生の学生の数は男子 120 名、女子 30 名の合計 150 名でした。もともと手狭で当初から仮校舎としていた悲田院町での開校から五年後、北河内郡牧野村渚御殿山に移転します。移転は、牧野村村長北條伊勇二と京阪電鉄の誘致によるもので、誘致条件は、京阪電鉄からの土地 4,800 坪の無償貸与と駅の新設(用地は学校側の負担)でした。

こうして開校前月の昭和 4 年 5 月 25 日に御殿山駅が開設されました。悲田院町からの移転後、通学生 500 人への増加を見込んでの誘致でした。当時の牧野村には大阪女子高等医学専門学校(現関西医科大学)、大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)が京阪電鉄等の誘致で開校していたため、田園風景の広がる牧野はさながら学園の街へと変わろうとしていました。

1911 年(明治 44)に枚方岡山手に移ってきた吉向窯(現在は交野市私市)以来、近代の枚方は “文化学術の街” へと変わりつつありました。枚方の街づくりはドイツのネッカー川左岸の学園都市ハイデルブルクをモデルにしたと言われており、大阪美術学校は当時の枚方の街づくりの一翼を担っていたといえます。そして、文化学術による街づくりは現在の「けいはんな学研都市」へと受け継がれています。

1929 年(昭和 4)6 月 25 日に御殿山に大阪美術学校が開校します。当時の聞には「木造白堊の瀟洒な建築、大阪美術学校一日に開校」(大阪朝日新聞、同年 5 月 26 日付)の見出しで新校舎の写真付きで掲載されました。記事によるとこの時の生徒数は男女約 250 名。御殿山での開校にあたっては地元の有力者で村会議長も務めた奥村又一の尽力が大きく、奥村は同校の理事長として学校の運営を担いました。また大阪南久宝寺町の扇子商・岩澤金治が 12 万円を寄贈したと新聞(大阪朝日新聞、同年 4 月 9 日付)にも掲載されています。岩澤氏を称える頌徳碑が大阪美術学校の石碑とともに現在も美術センター中庭にあります。

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