スタッフブログ

トップページ > スタッフBlog 最新記事
スタッフBlog
スタッフBlog 最新記事

NO.0039

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち

~~河井寛次郎①

公開日 2023.9.22


連載8:河井寛次郎①

 河井寛次郎(1890-1966)は「無位無冠の陶工」と呼ばれています。一切の栄誉に無関心で、自らを陶芸家や作家であると意識しなかったと伝えられています。パリやミラノの国際展で受 賞していますが、それも友人が本人に無断で出品した結果にすぎませんでした。後年、国が人間国宝、芸術員会員、文化勲章といった栄誉を与えようとしましたが、河井は固辞しました。
 河井寛次郎の作風は中国・朝鮮の古陶磁に倣った初期(大正期)、民藝運動の理念である「用の美」を探究した中期(昭和・戦前期)、自由な造形美を展開した後期(昭和・戦後期)の三期に分けられます。この連載では河井がそれぞれの時期に至る道のりを辿っていきます。

 河井寛次郎は1890年(明治23)、島根県能義郡安来町に生まれました。三歳で母と死別し、継母に育てられます。家の前には町の人たちの台所用具をつくるための窯場があり、幼い河井は窯場を覗いて、陶器の作り方をよく見ていたそうです。五歳の頃には、硯に水をさすときに使う陶器の水滴に紐を通して、腰にぶら下げられるようにしたという逸話も伝わっています。
 中学時代は英語と数学が得意で、級長や寄宿舎室長、雑誌部や講談部の委員を務め、柔道やボートに汗を流し、校友会誌に文章を発表したりする優秀な生徒だったようです。中学二年の時に医者だった叔父に陶芸家になることを勧められます。その時、陶芸家になる決心をしました。幼少の頃から興味を持っていたからだと河井は述べています。卒業後、成績優秀だった河井は校長の推薦で東京高等工業学校窯業科(現東京工大)に無試験で入学します。
 河井は自分の好きな陶芸を作りたい気持ちで入学したものの、学校には大いに失望しました。陶芸作家はまだほとんど存在しない時代でしたが、窯業科とはいえ、学校というところが作家を養成する場所ではなく、陶磁器や煉瓦、琺瑯、ガラスなどの工場技師の育成を目的としていたからです。河井は授業を怠けて、寄席やボートで遊んだり、学校の粘土を下宿に持ち帰って練ったり、楽焼屋に通ったりしていました。周りからは変わり者として仲間外れにもされていました。しかし、学校で習った科学の基礎的訓練は、後の彼の仕事に大いに役立ちました。  

 学生時代にバーナード・リーチと濱田庄司という終生続く友と出会います。
 二年生の時、河井は赤坂の三會堂でリーチの個展を見て、大きな衝撃を受けます。河井は最も気に入った壺を買い求めますが、修繕したあとがあったため、リーチはもっと良いものを作るからと約束、河井は後日改めて壺を受け取りにリーチを訪ねます。二人の出会いはこのようなものでした。
 濱田とは学校の先輩後輩という形で知り合います。河井は腸チフスを患い一年間の休学後、1913年(大正4)に復学すると、陶芸家を志す新入生がいると聞いて濱田に声をかけます。この時の河井について濱田は、痩せてきびきびした人という印象を持ったそうです。
 1914年(大正3)、河井は学校を卒業します。卒業後は、京都市陶磁器試験場に就職しますが、空席がなかったため当初は無給で働きました。その頃試験場を訪れた濱田は、河井が学生時代と同じ詰襟の制服に、腰に手ぬぐいを下げて仕事をしていたと述べています。試験場では彼を追って就職した濱田とともに、陶磁器に関するさまざな実験や研究を行いました。特に釉薬の研究に従事し、科学的知識を十二分に身につけることができました。その頃の濱田との共同研究の逸話として次のような話が伝わっています。釉を作る際にある陶工が原料を天秤で計るのではなく、手づかみで釉を調合するのを見せられました。焼いた結果は、その方が力のある釉の色が出たそうです。河井と濱田は、そういうやり方を身に着けるべく腕を磨こうと話し合ったといいます。また、図録や洋書で中国古陶磁のモノクロ図版を見、解説を読みながら見当をつけ、同じ辰砂のぼかしの効果が出るようにお互いに作って見せ合いました。後に「釉の河井」と称されるほどになるのは、学校や試験場での科学的な基礎研究の経験があってこそと言えるでしょう。

 河井は試験場勤務の傍ら、自らも作陶を始め展覧会に出品し始めます。1917年(大正6)には試験場を辞め、清水焼(きよみずやき)の五代清水(きよみず)六兵衛の顧問として、二年間各種の釉薬を作る仕事をします。1920年(大正9)、三十歳の時に清水六兵衛から京都五条坂の窯を受け継ぎ、鍾渓(しょうけい)窯(よう)と名付けて独立。同年、結婚もして心身が充実した日々を送ることになります。河井は生涯この地で作陶し続けました。
 そして1921年(大正10)、東京と大阪の高島屋で開催した最初の個展「第一回創作陶磁展覧会」で河井は一躍陶芸界で脚光を浴びることになります。河井の作品は中国・朝鮮の古陶の手法を駆使したもので、その多彩な手法と技術の冴えに人々は目を奪われます。河井は陶芸界の彗星と称され、以後三年間、高島屋で開いた五回の展覧会で陶芸家としての地位を確立しました。
 河井は第一回の個展で東京高島屋の宣伝部長川勝堅一と知り合います。川勝は生涯にわたって河井のコレクターとして親交を続けます。現在、彼の集めた河井の陶芸品は川勝コレクションとして京都国立近代美術館に収蔵されています。  

参考文献: 河井寛次郎『炉辺歓語』東峰書房、1978年

【投稿:スタッフM.K】